映画感想 「コードギアス 亡国のアキト 最終章「愛シキモノタチへ」」

2月はアニメ映画の上映が多いですね。たまゆらは3月中にはやって欲しかったが、延期したのは正直スケジュール的には助かる。
<映画感想 「コードギアス 亡国のアキト 最終章「愛シキモノタチへ」」>
TOHOシネマズ海老名で「コードギアス 亡国のアキト 最終章「愛シキモノタチへ」」を視聴。前回の第4章から7ヶ月、第1章からは実に3年半……ここまで長い付き合いになるとは思わなんだ。
設定や物語の意図するところについては、パンフレットを読むことでおおよそ補完や理解をすることができます。シンのギアスは「自分が好意を持った者にだけ自死を命じられる能力」で、幼いアキトは死を理解できていなかったためにそれを直接実行することなく、一方で無意識に自分を危険な戦場にさらすようになったこと。シンとアキトの兄弟は、そのギアスに象徴されるように孤独になっていくシンと、逆に周囲に人を増やしてゆくアキトという対の関係であること、等など。特に「対の関係」という回答は第4章でシンのラスボスとしての格が落ちてしまったと感じた僕への回答になるものでした。
そのことはジャンの所へ忍び込んだアシュレイの言葉によく表れていて、彼はジャンに「アキト達はシン(の心)を助けたがっている」と語り、ジャンにもそうすべきなのではないかと問いかけます。このやりとりは対の兄弟にそれぞれ思いを寄せるアヤノとジャンの会話の布石となっているわけですが、同時にシンを巡る人間関係の縮図でもあります。即ち、対峙するアキト達にとってすらシンは「倒すべき悪辣な敵」などではないという事実。
パンフ掲載のインタビューで赤根和樹監督は、シンはエゴイストではなく優しさの結果ああなった人間なので、もしかすると悪役としてはちょっと弱いキャラクターだったかもしれない……といった事を語っていますが、それはその通りだなと思います。「失ってゆく者」であるシンは「得てゆく者」であるアキトにとって救済の対象であって、ラスボスじゃないのですね。
ただ、そうして対として描くことは成功していても、そこから先の関係性の化学変化が描かれていたか……と言えば正直疑問。アキトはブレイン・レイド・システムでシンとも交感したり、戦いの中でシンに問いかけたりはするのですが、それがシンにもたらした効果の程はちょっと分かりづらい。明かされるシンの過去はあくまで彼の視点だけで描かれるのでアキトの反応に乏しいし、シンの心を最後に変えたのはジャンの犠牲やアキトとの思い出だし……と、シンにとっての救いがアキトの意思や言葉といったものではなく存在そのものになっているので、主人公としてのドラマ性をあまり感じられなかったのですよね。最後の最後で決め所をもらえなかった、と言えば具体的になるでしょうか。これまでの話におけるアキトの変化は悪くなかっただけにもどかしい。
戦闘シーンについては「敵を倒せない」ジレンマに囚われた第4章と打って変わって、(MSなどと比べて)小型・低火力のKMFの特性を活かした攻城戦というシチュエーションが迫力十分。レイラ側がKMFを出さず、城壁やトラップで対応する段階で既に面白いからね! 地面から飛び出した槍に串刺しにされるKMFなどは人間相手ではグロさが前面に出てしまう容赦のない仕掛けだし、四脚を活かして相手を後ろ蹴りで撃退するヴェルキンゲトリクスも他にない格好良さが描けている。個人的には本作の戦闘シーンは第1・2章のアレクサンダのインセクトモードを越えるものはないと思いますが、それでも十分に魅力的でした。
最終的に娯楽性よりも人の内心に踏み込む形になったドラマ作りはけして嫌いではないのですが、このあり方は視聴回数を重ねにくい連作映画形式には向いていなかったのではないかな、と思います。特に本作の場合、冒頭書いたように全5章で3年半かかり空白期間が長いのでキャラの感情が頭からこぼれるこぼれる。毎週地上波放送する形なら僕も2度3度と見ますが…… 政治劇部分が前面に出るようで最後は裏手に回ってしまったのも、反逆のルルーシュの視聴感覚を引きずってしまうと本作を楽しめなくしてしまう一因かもしれません。
全章をまとめて見るような形であれば、僕の受けた印象は少し違っていたかな。ともあれ、長期間の製作、スタッフの皆様お疲れ様でした。
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