共感されなければ物語にはならない/Re:CREATORS 11話感想
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あんな可愛い眼鏡っ娘とのウフフアハハに共感できるようになりたかっただけの人生だった。
Re:CREATORS(レクリエイターズ) 第11話「軒下のモンスター」
© 2017 広江礼威/小学館・アニプレックス



様々な痛みを残しながらも、ひとまず戦いは終わった。颯太の胸に去来するものは……
被造物は創造主と構成要素は同じだけど回復力が違う、けれど痛みは同じ――冒頭の菊地原の言及はこれまで行われてきた創造主と被造物の等列化の追認であると同時に、差別化でもあります。等しい位にあることは、同一であるということではない。明日世界が滅ぶとしても、とりあえずりんごの種は植えていかないといけない。
前回松原はセレジアを助け、今回は鹿屋が颯太の心を助ける。「ありがとう」が前者では始まりに、後者では終わりに位置する様子は両者を重ねて等列に見せてくれると同時に、そこには明確な一線があります。助け合うことはできても創造主はどこまで行っても創造主だし、被造物は被造物であることは変わらない。セレジアは創作であると知ってもやはり自分の世界に帰りたい。鹿屋は颯太の可能性を賞賛こそすれ、それを欲しがりはせず自分に役割があることを以って自らを伍する。それは等列であり、そして違うということです。
一方で、創造主達がお話を好むように被造物のセレジア達だってお話を好むし、被造物の鹿屋は創造主の颯太の心の暗がりに自分を重ねて激励する。違うけれど、等列になって考えることはできる――共感することはできるのです。良くも悪くも。
かつて颯太が欲していたのは「同じものを見て、一緒に喜んだり笑ったりする相手」、すなわち共感する相手でした。シマザキセツナはそれであり、自分の絵を気に入り、一緒に冒険して、同じ高さに倒れ、眼鏡をかける2人は等列にある。颯太はそう感じたはずです。けれど先に述べたように、等列にある事は同一であるということではない。SNSで有名になっていくシマザキセツナの姿は「同一ではない」高さばかりを颯太に認識させ(ハコニワ会場での身長差の描写がこう見ると皮肉だ)、これまでと変わらず等列に語りかけてくる彼女から目を背けさせてしまった。剽窃の言いがかりを受ける姿に彼が嫌な満足感を覚えたのは、言ってみれば等列と同一の錯誤がもたらしたものでした。
「共感されなければ物語にはならない」。逆に言えば、共感されればそれは物語になる。あたかも真実になる。シマザキセツナの剽窃疑惑が騒ぎという物語になったのは、それが多くの人間の共感を呼んだからです。ならば、彼女を殺したのは自分だという颯太の語りはセレジア達に「共感」されるのでしょうか。そしてそれは僕達に「共感」されるのでしょうか。次回生まれる物語を、待ちたいと思います。
関連:
Re:CREATORS 感想リスト
Re:CREATORS 第1話「素晴らしき航海」
Re:CREATORS 第2話「ダイナマイトとクールガイ」
Re:CREATORS 第3話「平凡にして非凡なる日常」
Re:CREATORS 第4話「そのときは彼によろしく」
Re:CREATORS 第5話「どこよりも冷たいこの水の底」
Re:CREATORS 第6話「いのち短し恋せよ乙女」
Re:CREATORS 第7話「世界の小さな終末」
Re:CREATORS 第8話「わたしにできるすべてのこと」
Re:CREATORS 第9話「花咲く乙女よ穴を掘れ」
Re:CREATORS 第10話「動くな、死ね、甦れ!」

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