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描かれる変化、描かれない変化――「さよならの朝に約束の花を飾ろう」感想


 「ファイナルファンタジータクティクス」で遊んだ人間の1人としては吉田明彦デザインのキャラがアニメで動いてるというだけで驚愕……! そしてそのリアリティが生み出す物語。



さよならの朝に約束の花を飾ろう
©PROJECT MAQUIA

 「さよならの朝に約束の花を飾ろう」を視聴。何十年という時間が劇中で流れるという意味で大河的であり、一方で関係性が2人に集約される点でミクロでもあり。そうした物語を見ていく中で感じたのは、本作は「変化するその瞬間」を描かない作品なのではないかなということでした。
 例えばマキアがレイリアを助けに旅に出る場面は世話になったミドとの別れを描いても良さそうなものですが、それは謝罪に訪れたディタが彼女達が立ち去ったことを知るという形で描かれます。例えばエリアルは成長する中でマキアを母と呼ばなくなりますが、呼び方が変わったことはラングとの会話の中で説明される。この他、年を経るごとに優しくなっていくイゾルやラングが師団長にまで出世したこと、エリアルが結婚し父親になろうとしていることなど……普通ならそういった瞬間をドラマチックに描くものだと思うのですがそうではなく、そしてそれに違和感がありません。だってそういった変化が示される度、物語の中では変化が起きるに相応しい時間が流れているのですから。
 マキアやクリム達が知らぬ内にレイリアが子を孕み逃げられない存在になっていたように、そうした変化は全てが目に見えることはなく、しかし当然ながら多くの人々の中で起きている。それは最初に姿を現した時は恐怖の対象でしかないレナトが突如として赤目病を発症し(変化し)、死を迎えなければならないことからも見て取れます。

 変化は時間の流れによるものだけではなく、舞台や衣服によっても強調されます。白く幻想的なイオルフの里、のどかなヘルム農場、産業革命(つまり変化)を連想させる鉄鋼の街ドレイル、古式美を保つようで次第に朽ちていくメザーテ。またマキアは母になると決めれば髪を茶色く染め、ドレイルで姉として過ごすことになれば装いも変える(そしてかつては母子にしか見えなかったエリアルとの関係は、駆け落ちではないかと邪推される)。バロウにしても「人間とイオルフのハーフであると明かす」ことでその瞬間、彼はマキアの認識上において変化を遂げている。実情に限らず、外面が変われば人はその相手が変わったと見る。
 だから変化を拒むクリムはマキアを元の姿に戻そうとし、またマキアはそこから別の何かに変化しうるように見えるわけですが――でも、既にしてマキアはかつてのマキアと同じではありません。マキアがエリアルにどう呼んでもらっても構わないと言っても、つまりある意味で関係のリセットを許容しても、そうはならない。エリアルが再び「母さん」と呼んだ瞬間、エリアルに接した茶色ではなく生まれたままの金の髪の姿の彼女もまた、母となる。だからエリアルの最後を看取りに現れた彼女はまた、金の髪のままだったのでしょう。親を知らず一人ぼっちだった金の髪の少女は、別れがあっても確かに一人ではなくなったのだと思います。

 変化の瞬間の多くを描かない手法、レイリアとメドメルの別れなど上手く飲み込めていない部分は多々あるのですが、現時点で僕が見て取った本作の「筋」はこんなところでしょうか。初監督作品ということで不安視している方も多いと思いますが、見に行って損の無い作品であると思います。


↓珍しく感想を2回書きました。
描レナト、そして母という「伝説」――「さよならの朝に約束の花を飾ろう」感想2

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