レナト、そして母という「伝説」――「さよならの朝に約束の花を飾ろう」感想2

つぶやきで済ませるはずが気がついたらもう1本感想を書いていた(;´Д`)
さよならの朝に約束の花を飾ろう
©PROJECT MAQUIA
多くのキャラクターが齢を重ねる姿を見せる「さよならの朝に約束の花を飾ろう」。彼らはみな魅力に溢れているのですが、個人的にとても印象に残ったのは「レナト」でした。ええ、あのメザーテの古獣です。別にひねくれているわけではなく。最初こそイオルフの女をさらいに来たメザーテの悪魔の乗り物のような登場をする彼らですが、それはほとんど間を置かず赤目病という治療不可能の病によって不安定になり、わずかな数しか生き残っていないこと、そんな状況でどうして飛ばないのかとレイリアに問われることでむしろ弱々しい存在となる。レナトは人語を介さずまた複数の個体が登場しますが、それゆえに彼らはその全ての登場シーンを1つに固めて見ることができるのではないかと、そう感じたのです。
もともとメザーテはレナトによって空を制することで高い国力を持ち、諸国を圧した国でした。子供達はレナトを模したお面を買って喜び、パレードではその姿を見ることで戦意が高揚する。長い時を生きその戦力を支えてきた彼らは、言ってみればメザーテの「母」です。ですがミドやマキアを「母」から自由にしたい(楽をさせたい)と手元を離れたラングやエリアルと異なり、レナトの数が減る中でメザーテが求めたのはイオルフという代替でした。すなわちメザーテという国は新たに母になってくれるものを求め、自立することがなかった。そういうことではないかと思うのです。
そしてこのレナトに関する着想と重ねて、以下の2つの記事から得たインスピレーションがあります。
途中まではネタバレ無しで書いてます。1人でも多くの方に見ていただきたい素晴らしいアニメ映画になってます!! #さよ朝; https://t.co/CeHe5WBqss
— ナガ@映画垢🐇 (@club_typhoon) 2018年2月24日
こちらのナガさんの記事で印象的だったのは、母性が先天的に備わっていると考えるのは誤りだという指摘でした。これを「母性とは伝説である」と読み替えてみます。
はてなブログに投稿しました
— ねりま (@AmberFeb201) 2018年2月24日
フィクションは私たちを愛していた――『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想 - 宇宙、日本、練馬https://t.co/i0jRJv0bl8
こちらのねりまさんの記事で印象的だったのは、マキア達の存在は物語(フィクション)の暗喩であるという指摘でした。この「物語」を「伝説」と読み替えてみます。
この2つを読み替え、僕の中で繋げてみたのは「理想の母性とは伝説である」ということでした。ミドもレイリアもマキアも、自分が「理想の母親」だとは思っていません。何かしらの欠落を抱えた中で必死にその真似事をして、母親たろうとした。けれどラングにとってミドは疑いようもなく母であり、エリアルは悩みながらもマキアを最終的に母と定義し、母の顔も知らなかったメドメルは別れによって確かにレイリアを母と認識した。
母親達は自分に満点を付けられなかったとしても、子供達にとっては彼女達は母以外の何者でもなく、それが彼らにとっての理想、すなわち「伝説」になる。そして伝説とは、傍ではなく遠くにありてその体温を感じるもの。だから「エリアルの母であるマキア」「メドメルの母であるレイリア」「メザーテの母であるレナト」はメザーテ陥落の日、ああして去っていったのだと――「伝説の種族」へと戻っていったのだと思うのです。人に飼育される形で外に出て最後の一匹になってしまったレナトですが、同じ伝説の種族であるマキアやレイリアと共に過ごすようになったことで「一人ぼっち」ではなくなったのではないでしょうかね。
どうも僕は父親にはなれない人間みたいですが、世の母親になった方々に、無理せずその人なりの「お母さん」をしてほしいな……と。そして、自分の母に改めて感謝したいなとも。この感想を書きながら、そんなことを考えました。
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