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道化は人形にあらず――「からくりサーカス」3話感想


 息をすることは生きること



からくりサーカス 第3話「奈落」
©藤田和日郎・小学館 / ツインエンジン
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 「からくりサーカス」3話を視聴。からくり屋敷で勝は、自分が父にとって子ではなく目的のためのエサであったことを知ります。つまりこれまで鳴海としろがねの演目を見る「観客」であった彼は「人形」だったわけですが、今回はそうした変化が目まぐるしく描かれていたように感じました。

 かつて阿紫花達の一族は才賀家に自分の人形を作ってもらう人形使いだったわけですが、いつしか立場は変わり才賀の方が大金を積んで人形を使わせるようになっていました。そして勝の父である貞義は彼らを使って人形の性能を確かめ、不要になれば潰し合わせようとした――人形使いだったはずの彼らは、貞義の人形と化していたと言えます。
 貞義の弟である善治もまた同様で、誘拐組という人形を操っていたつもりの彼もまた貞義の思惑通りに動く人形に過ぎませんでした。初登場時こそ怖さがあるのに、どこか安っぽさで格落ち感が無い塩梅が絶妙だよなあこの造形……

 「人形使い」と「人形」。上述した阿紫花達の立場やしろがねの認識に象徴されるように、両者はともすれば境を越えかねないほど隣接しています。しろがねに至ってはエレオノールという少女を元に老婆達が作った人形である、という形容すら不可能ではありません。けれどやはり、両者は違うのです。人形使いは道化ではあっても、もの思わぬ人形ではないのですから。
 人形は自分が壊れても何も思わないし、他者が傷ついても何も思わない。それはすなわち、人間である証明とは自分と他人の両方に対して何かを感じられる――自分と他人の両方を人間扱いできることである、ということなのでしょう。ままならぬ自分に思い悩めて、他人の傷つく姿に心を痛めることができる。しろがねをかばって負った鳴海の怪我も、その彼のゾナハ病の発作を止めたいと願うしろがねの表情も、恐怖に追い立てられながらもそんな2人の姿を見て心を痛める勝の姿がボロボロであることも、どれもが何より彼らが生きている=人間であることの証明であるように思います。

 人形でないなら、それは変化することができます。鳴海の発作を止めようとしたあの時、しろがねには勝以外にも守りたいものが生まれていた=勝以外に対しての道化でもあろうとしていました。またその時、鳴海という道化にとってしろがねは勝に劣らぬ観客となっていました。そして勝はただの観客であった自分を殺し、養子(人形)になることを拒絶し、自ら舞台に立とうとする――道化たらんとします。かくして、次に進んだ演目の行方はいかに。次回も楽しみです。

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 ありがとうありがとう、ローリングアームズを出してくれてありがとう。どう見ても立派なかませ犬デザインです大好き。

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