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愚行の価値――「ゲゲゲの鬼太郎(6期)」40話感想


 脇役で目にすることの多い沼田祐介さんですが、「鉄人28号FX」では主役を務めたこともあるんですよ……なんちゅうキャスティングだ……



ゲゲゲの鬼太郎(6期) 第40話「終極の譚歌 さら小僧」
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
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 「ゲゲゲの鬼太郎」6期40話を視聴。悲しいハッピーエンドの回であったように思います。
 ビンボーイサムは一度は売れるもその後10年以上鳴かず飛ばずの状態を続け、それでもお笑い芸人をやめませんでした。今回描かれた出来事の中では二度も恐ろしい目に会いながら、結局さら小僧の歌の盗用をやめませんでした。これって恐らく、彼の中では全く同じことなのですね。ねずみ男が指摘したように「笑わせて脚光を浴びたい」というのがイサムの唯一にして最大の願いであり、それを諦めるのは彼にとって死ねというのに等しいのです。
 心の底からの願いを叶えようとする。それは一般的には「良し」とされることでしょう。その観点からすれば、盗用だからいけないとか命の危険だとかただ傍にいてほしいという家族の願いなどは、心からの願いを妨げる悪しき誘惑ですらあります。イサムは最終的にそれらを全て振り捨てて盗用を続け、「他になにもいらない」とすら考えました。良心も、自分の命も、家族の笑顔すらも芸の脚光と引き換えにして惜しくない。彼は自分の心の底からの願いを、そういうレベルまで純化することに成功したのです。
 さら小僧に襲われるイサムの姿は描かれません。単なる教訓や戒めであるなら、愚かな人間の恐怖の表情を描くべきでしょう。でも本作はそうしなかった。あの後イサムは驚き、悶えて苦しんで死ぬのでしょう。けれど彼は同時に「これでいい」と満足して死ぬのではないかとも思います。彼の行動に鬼太郎は同情しないし家族は嘆き悲しむ。誰も彼の行動を理解しないでしょう。けれどそれは、彼が彼だけの望みにたどり着いた証でもあるのです。

 人間は時に他者から見て愚かとしか言いようのない行動をします。例えば映画監督の黒澤明は「雲が気に入らない」と撮影を何日もストップしただとか、撮影にそぐわない住宅を消そうとしただとかといった逸話がよく語られます。どれだけ映画撮影に入れ込んでいたという証明ですが、興味のない人から見れば愚かとしか言いようがないでしょう。
 もちろんさら小僧の歌はイサムのものではないし、お笑いグランプリの優勝なんて本当にそれだけでしかない。でもその愚かなことが彼にとっては何より大事で、他の全てをなげうってでも得たいものだった。小心者で格好良さの欠片もないイサムのデザイン、多くの作品で脇役を演じ続ける沼田祐介さんの演技が、悲哀と業と美しさの全てを兼ね備えていたお話でした。

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