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見誤り続ける物語――「炎環」感想




 永井路子の「炎環」を読了。僕は歴史上の有名な人物のマイナーな親族縁者のことを知るのが大好きでして、この本も牛若丸のおとぎ話に出てくる兄の今若丸こと、阿野全成について書いた小説はないかなと探して知ったものです。NHK大河ドラマ「草燃える」の原作の1つでもあるのだそうで。本作は1つの長編でも独立した短編でもない四編の小説という変わった小説ですが、全体としては「見誤り、あるいは見誤られる物語」であったように思います。


 阿野全成も梶原景時も、北条政子もその妹保子も、北条義時も。四編で主役を務める者達は、いずれも外部からの評価と異なる実体を持っています。影の薄い僧のようでしっかと野心を持っていたり、忌まれ恐れられる讒言者が誰より武家政権を願っていたり、考えなしの女にがむしろ底知れぬ企みを抱えていたり、崇められる女性がむしろ何も得られていなかったり、己を韜晦するかのような男が誰よりも遠くを見ていたり。つまり彼らは、見誤られている。
 同時に彼らは全編を通しての主人公ではないから万能に至ることなく、彼ら自身も他者を見誤り破滅したり大切なものを失ったりする。最初の主人公にして、俯瞰で見られる立場にあることを自分に言い聞かせていた全成が甥の頼家の目を見落としていたのは、本編のありようを象徴していたように思います。

 他者に見誤られ、自らも見誤ることを繰り返していく人々の姿は、それが武家政権という環の中にあることで武家政権そのものを他者に見誤らせます。すなわち、後鳥羽上皇が幕府を討とうとした承久の乱は義時を見誤った公家方が武士と幕府そのものまで見誤ったものであり、これまでの物語同様に見誤った者達は手痛い仕打ちを受けることになる。権力の頂点に立った義時が権勢を振るわずむしろ内なる愛欲を、己を「見つめ直した」のは、これもまた見誤り続けるどうしようもない流れの一環なのかどうなのか。
 本作の主人公達が世間一般の印象と大きく異なる姿を持っていることは、つまり私達が彼らを「見誤った」のを知らされるということでもあるのでしょう。不思議な読後感のある小説でした。

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