人間の数は世界の語彙の数――「1984年」感想
ジョージ・オーウェルの「1984年」を読了。この本の名前を初めて聞いたのは、アニメ「リトルウィッチアカデミア」だったでしょうか。管理社会を描いた超のつく有名ディストピア小説。リトアカに限らず、現代への警句としてたびたび引用されているようです。僕個人として面白かったのは、言語と人という2つの要素の符合でした。
本作の特徴としては管理と支配が物理的なだけのものでなく思考に及んでいることがあり、本作独自の言語「ニュースピーク」は物語の前面に出ることこそないもののそれを裏打ちしています。
英語を元に党が作った普及半ばの新しい言語であり、人々がその言語で思考するようになれば党(イングソック)に対して疑念を抱くことすらなくなるというニュースピーク。主人公ウィンストンの友人であるサイムはその本質を、言語の意味の「破壊」であると指摘します。
また、本作は三部構成となっていますが、第三部は逮捕されたウィンストンが拷問と教化を受けその精神と肉体を「破壊」される様子が描かれています。
「破壊」という言葉を2度使ったように、僕はこの2つは等しい意味であるように感じました。言語によって思考が規定されるというならば、思考によって言語もまた規定される。ニュースピークという新しい言語を作り出すと同時に、党の反逆者になり得る存在ではなく党に心から忠誠を誓う新たなウィンストン・スミスを作り出す過程が描かれているのがこの物語だと思うのです。
ニュースピークは品詞の変化による語形の変化などが一律にされ、また改訂される度に語彙を減らされています。それは言語の多様性、個性といったものが減らされていると言っていいでしょう。そして多様性や個性という形で捉えるなら、登場人物もまた変わりません。
体制に疑問を感じている主人公ウィンストン、イングソックに傾倒しているが頭が良過ぎる故に危険なサイム。弱々しくも天性の詩人であるアンプルフォース、党を疑うことなど知らぬとばかりの小市民であるパーソンズ。密かにウィンストンの恋人となるジュリアも彼と志と同じくするわけではなく、党の提示する道徳は否定しながらも組織だった抵抗などできないと考え、個人での逸脱を楽しもうとするのみ。しかし党はこうした個性的な人物を全員「同じく」党に背いた犯罪者として捕え、社会的に蒸発させてしまいます。後に残るのは典型的な党員、ウィンストンがカメムシのようと評する連中ばかり――名のある登場人物が減れば、物語が語れることは減る。それは先程と逆に言語的に捉えるなら、物語の語彙が減るということなのです。
作品の最後では、ニュースピークがいかにしてオールドスピーク(英語)を作り変えたものであるかが詳細に説明される「附録」が収録されていますが、これが描かれるのは当然、ウィンストンが拷問され教化された後。つまり附録はオールドスピークが受けた拷問と教化を示したものとしても見ることができます。いずれオールドスピークが葬られればそれで書かれた過去の思想そのものが後世の人には理解できなくなるという附録の記述は、屈服したウィンストンが自分で自分の記憶を偽物と考えるようになり、そしてやがて処刑されればもう記憶の正否を確かめる術が失われるのと同じことなのです。
人間は生まれてから死ぬまで、どれほどの言葉を発生させるのでしょう? 人の精神を破壊し支配することは、そこから生まれるはずだった無数の言葉を変質させ、あるいは失わせてしまう。私達が人間として精神の独立を守ることは多様な思考を守ることであり、つまり世界の持てる語彙を守ることなのではないでしょうか。とても作家らしいアプローチのされた作品だったのではないかと思います。

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