思考記録:エガオノダイカと僕の感想と僕という人間
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<第一段:エガオノダイカについて>
連続ツイート
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
タイトル「思考記録:エガオノダイカと僕の感想と僕という人間」
第一段:エガオノダイカについて
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
TOKYO MXでは今晩最終回を迎えるエガオノダイカ。はっきり言って評判はよろしくない。僕もあまり好きではない。なぜ好きではないか、最終回を見てから書くつもりだったが、連なるものもあって内容と時間と精神的に明晩は無理だろうと思うので今書く。
僕の見立てる分には、本作は描きたい事(テーマ)に自覚的だ。11話まで見た分には「隔たりは越えてもまた生まれる。しかし隔たったままでも繋がれる」という感じで、振り返ればそうした描写をずっと繰り返している。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
ずっと、というかそれに直接繋がる描写しかしていない。物語で死ぬべきとされた者が死ぬべき描写を重ねて死んでいく姿に代表されるように、テーマに対してほとんど全てが直線で突っ込んでいっているように僕には見える。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
僕は2話のヨシュアとユニの「お前も案外かわいいとこあるじゃん」「!? なっ……言ってろ!」ってシーンがすごく好きだ。単純にユニがかわいいのもあるし、ユウキと三角関係になるのかなと考えたし、これならヨシュアはまだ死なないだろうと思った。そしてにも関わらず死んだのが尚いい。 pic.twitter.com/g29wz4F0AV
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
後から見ればヨシュアとユニが隔たりを越えた後で再び生死に隔てられたのであり、そしてその後ユニが「気合と根性」という言葉を使うようになり、隔てられたまま彼と繋がるようになったという点で見事にテーマにシンクロしている。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
僕はこういう「クソどうでも良さげに見えるものに本筋のテーマがシンクロしてる」のが好きだ。だから、こういう描写がもっと多かったら僕はこの作品を好きになっていたと思う。そしてそういう描写は他ではほとんど見つけられなかった。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
本作には冗長性や「急がば回れ」な要素がほとんど無かったのではないか? キャラクターがスタッフの想像を超えるような部分はほとんど無かったのではないか?と僕は考えてしまう。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
他の人はこういうのを「エンタメ性がない」「意外性がない」「キャラだ台本に動かされてる」と表現するのではないかと思う。繰り返すがおそらく、本作はテーマに自覚的だ。しかしテーマだけを見つめて、そこで自己完結してしまったのではないか。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
<第二段:僕の感想について>
第二弾:僕の感想について
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
そして「自己完結」という言葉は僕にとって大きな意味を持つ。僕は自分の感想をそれなり突き詰めたと自惚れているけれど、しかしそれはあまり他人にはヒットしないもののようだ。
僕の感想は人を寄せ付けないものなのではないか?と近頃ようやく考え出して、それはある方に「よく考えてるしつまらなくはないですよ。ただ『自己完結』してるから反応に困る部分もありますね」というご指摘をいただいて自信を深めた。(二重鉤括弧は僕による)
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
つまりエガオノダイカの描き方は僕にとって鏡のようなものであり、僕はこの作品とそれに抱いた印象をただ不満で終わらせてはいけないのではないか?と思った。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
僕の感想がどういう理由で自己完結しているのかは自分ではよく分からない。僕の考えと予防線を張るところか? ロジックの組み立てでガチガチなところか? とにかくこれを他山の石にしなければ……で済むならまだ良かったのだが、事はそれで終わらなかった。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
<第三段:僕という人間について>
第三段:僕という人間について
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
ふと思ってしまったのだ。自己完結しているのは感想ではなく、僕という人間なのではないかと。これが第三段にして本論。長いんだよ。
僕を優しいと言ってくださる方もいるのだが、自分ではそうは思えない。僕が誰かに親切にするなら、それは僕が「そうしないと自分のルール」に反すると思ったからだ。でも、その時思考にあるのは誰かじゃない。僕だ。僕が誰かに親切にする時、僕は自己完結している。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
僕は不満があってもあまり口にはできない。それは感情を自分が納得するロジックに変換できてなければ表現すべきではないと考えているからだ。自己主張がないわけじゃない。むしろそうやって黙ってしまうことが僕という人間の自己主張あるいは自己の表出であり、それは当然自己完結している。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
「刀使ノ巫女」の可奈美や「機動武闘伝Gガンダム」のドモンにとって剣術や拳がその人を表現するものであるように、僕にとっても感想を書くことは僕を表現することだった。それは自分を見つめることでもあった。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
しかしそうなら、僕の感想は突き詰めるほど僕になる。「自己完結してしまう僕」になってしまう。ならば、僕は感想を書くことではどうあがいたって孤独な僕から逃れられないじゃないか。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
僕の感想は僕だけのものの見方から生まれている。1作品1話の感想を書くだけで著しく消耗してしまう見方。突き詰めることでいっそう消耗を深める見方。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
同時に僕は、他人や新しいものに接した時にどんどん消耗するようになっている。自己完結している世界が淋しくて淋しくてたまらないのに、どんどん他者に接するのが大変になっている。毎日毎日、思考の海に溺れそう。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
嫌でも思考してしまう時、人は酒を飲んで思考を鈍麻させて自分を解放するのだろう。でも僕は下戸で、その程よい鈍麻の時間は見つけづらいし僅かな時間しかない。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
こうした思考も吐き出せば(言語化すれば)楽になる。でも、それは自己完結と同じで一時的なものだ。誰か、誰か僕をこのループから抜け出させてくれ。それが身勝手な、それこそ自己完結した願いなのは分かっている。でも、どうしたらいいか分からないんだ。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
<そして>
おそらくこの、文章を長ったらしく、そして書き上げてから一気に連投すること自体が僕の自己完結性。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
<追記>
僕は幸せものだ。 https://t.co/jzh1nBo3sY
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月25日
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