思考記録:続・エガオノダイカと僕の感想と僕という人間
- CATEGORY: Wisp-Blog
- TAG: アニメ_2019年冬アニメ
連続ツイート
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
タイトル「思考記録:続・エガオノダイカと僕の感想と僕という人間」
エガオノダイカに僕が見たテーマは「隔たりは越えてもまた生まれる。しかし隔たったままでも繋がれる」。12話を見てその隔たりが自分と他者の間だけでなく現在と未来の間でもあると感じた時、僕の中でこの作品は不満とは別に強い満足を与えてくれた。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
「やりたいことは分かるがやり方が悪い」とはよく見る評判だが、逆に「やり方は悪いがやりたいことは大好き」というのが僕の気持ちに相応しい表現なのかもしれない。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
(もちろん、やりたいことというのが僕の一人合点である可能性は留意する必要がある)
僕にとってアニメ作品とは人格を持った個人であり、映像はその所作であり、テーマとはその精神だ。アニメを視聴することはアニメという個人と対話することであり、相手がどういう人間なのか知るのと同じこと。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
結局僕は、テーマを知ることが好きなのだ。所作から覗くその人柄に、その精神の奥深さに少しだけ手を伸ばせたと思える瞬間。その人を好きになれる瞬間が、たまらなく好きなのだ。多分それは、アニメに限ったことじゃなく。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
僕の感想は僕の表象であり、感想を書くことは自分を見ることだ。それこそ、感想に今の自分の変われない限界を見て絶望してしまうほどに。それはとてもショックなことだった。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
しかし今は同時にこうも思う。僕の感想が僕の表象であるならば、僕の感想が変わることは文章に限らず僕が変わることでもあるのではないか、と。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
それはおそらく、線を定規に沿わせるような強引な変化では意味がない。あくまで僕の表象であり続けながらの変化でなければ意味がない。必要なのはきっと、定規もなく引く線がいつの間にか曲がるような、そういう変化だ。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
僕という人間はここにしかいない。しかし感想という名の僕は目の前にいる。なら僕は、感想を通して自分と対話することができるのではないか。むしろあの絶望こそは、その現れだったのではないか。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
そして、そんな風に考えられたのは他の人が僕と対話してくれたおかげだ。こんなにも面倒くさい僕に、何人もの人が親身になって声をかけてくれたり、反応してくれたおかげだ。それが僕には今回、何よりも嬉しかった。
— 闇鍋はにわ (@livewire891) 2019年3月28日
ありがとう、ございます。
関連:
思考記録:エガオノダイカと僕の感想と僕という人間

にほんブログ村