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危険の中で見えるもの――「からくりサーカス」26話感想


 ここにたっぷり時間使ってくれてありがとう、ありがとう。



からくりサーカス 第26話「アニマル・ショウ」
©藤田和日郎・小学館 / ツインエンジン
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 「からくりサーカス」26話を視聴。今回の敵であるラーオとナイアは、共に自分は安全な場所にいながら一方的に攻撃を加えることを非難されます。彼らの主たるフェイスレスもまた、しろがねに自分を憎むよう仕向けながら、それを利用してもう1人の自分とするつもりの勝には安全に愛情が向くようにしている点で部下達と変わりありません。

 他者との危険に身を晒すことは己の限界に挑むことであり、限界に挑むことは己を正視することでもある。そうしない者は観客の前で芸をせず拍手を得られない道化と同じであり、ゆえにリーゼの勝利はサーカス芸人という本作の原点を浮かび上がらせます。ナイアにとっての老いさらばえた本体に限らず、自ら作ったが操りきれない幻獣もまた、ラーオにとっての自分に他ならない。それに向き合えなかったから、彼は勝てない。

 サハラ戦を始めとして、しろがね達はしろがねではない自分と向き合うことで死んでいきました。ナイアの物語もまた、それに似ています。復讐に全てを捧げたしろがねから死を恐れるただの人間となり、しかしOになった死なない体を繰り返し与えられる生活は自分から向き合うことを避けるだけのもの。それと向き合うのを強いられて初めて、ナイアは自分の全てをさらけ出します。それを僕はとても美しいものだと感じました。死にたくない、老いたくない、どうして自分の人生には何もいいことがなかったんだ、自分だって幸せになってもいいじゃないか――止まらない擬似体液は彼女の血潮であり、涙を流せぬ彼女の絶叫でもある。アンジェリーナにとっての正二のような相手が見つかることはなく、幸せの探し方を間違えてしまった彼女は、勝が言うように確かにかわいそうなのでしょう。それでも、醜くとも肯定されることはなくとも、しろがねでもOでもない本心(自分)をさらけ出せたことは、何を語ることも許されず死んでいくより遥かに救いだったのではないかと思います。
 モニターに隔てられた観客たる僕が彼女に直接してあげられることは何もありません。けれど、最後に彼女が見せてくれた「芸」は、じっと見入ってしまう、心の中で拍手を送りたくなる、そういうものだったことだけは記しておきます。

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 まあそれはそれとしてリーゼの脚線美をたくさん保存しておきますね。

<どうでもいい追記>


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