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心が水虎になる前に――「ゲゲゲの鬼太郎(6期)」64話感想


 長谷川圭一さん脚本回の鬼太郎になると感想に気合が入るマン(空回りしてないかどうかは別)。



ゲゲゲの鬼太郎(6期) 第64話「水虎が映す心の闇」
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
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 「ゲゲゲの鬼太郎」6期64話を視聴。水虎はゲストである辰川翔子に自分を解放すればお前も解放してやるとそそのかしますが、実際水虎によって翔子の心が解放される……というより、暴き立てられるお話であったように感じました。物語は彼女が入水自殺を試みる場面から始まりますが、その時点では絶望に至る経緯は視聴者には開示、つまり解放されていません。そもそも水虎が呼びかけがなければ、彼女は何も言わずに滝つぼに飛び込んでいたでしょう。水虎は翔子の思いの内を聞き出したあの時点で、翔子の心を解放し始めていたのです。


 夫や息子とのやりとりにも描かれていますが、翔子は荒んだ感情を表に出さない、解放しない人間です。自分も理不尽な目にあっているとは言え一方的に怒鳴るようにしてしまう夫と喧嘩もせず、諦めきって自分の手を振り払う息子を叱りつけもしない。彼女が自殺を考えるほど苦しんでいたなんて、きっと夫も息子も想像もしていなかったことでしょう。
 水虎が解放し暴き立てるのは、彼女が溜め込んだ怒りや恨みの根源です。夫を苦しめる社長が憎い。息子を苦しめる子供が憎い。自分をいじめる社長夫人が憎い。ですが人は、そんな風にきれいに切り分けて人を憎むことができるものでしょうか?そうではない。人は何かに苦しんでいる人の世話をする時、その対象にすら憎しみを抱き得る。憎しみも苦しみも流れる水のように伝播するもので、どこかでせき止めてしまえばそれは溜まる一方になってしまう。

「笑ってるね、お母さん。でもなんだか悲しそう」
「ああ」


 翔子の夫と息子はミイラになる前、水虎に人を襲わせる翔子の動画を見てそう会話しました。2人は初めて、翔子がそんなにも悩んでいたことを知ったのでしょう。水虎によって、彼女の苦しみは2人の前に解放されたのです。
 そして翔子もまた、水虎という異様によって自分の心がそこまで荒んでいたことを知りました。あの時滝に飛び込んでおくべきだったと絶望に暮れる心情は滝つぼに飛び込もうとした時と同じ、自分の内に全てを押し込めようとするものであるわけですが――今度はそれは否定されます。かつて水虎に話すことによって解放された苦衷は今度は鬼太郎に話す機会を得られたし、動画を通して自分の心の内を解放したことによって翔子の夫と息子は彼女に目を向けました。そして悪徳社長一家もまた、自分の悪行を解放されることで破滅に陥ります。


 水虎の存在自体は悪であっても、同時に彼の象徴した解放という行為は全て悪とはされていません。それは解放という行為の程度やあり方の問題なのだと思います。翔子のように解放することをせずに堪えてしまえば、いつかそれは水虎になって溢れ出してしまう。大切なのはきっと、そんな風に荒む前に心を解放することなのでしょう。――あなたの心の中に、無理やり抑えて水虎になりかけているものはありませんか? あなたの周囲の人は、心の中に水虎を隠してしまっていませんか?

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