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幻視する黄金の日々――「ペンギン・ハイウェイ」感想

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 お姉さんもハマモトさんもいいけどクラスの眼鏡っ娘もね(正月のカレーのCMの如く)



ペンギン・ハイウェイ
© 2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会


 森見登美彦の小説をアニメ化した「ペンギン・ハイウェイ」。視聴後の爽やかな感覚と共に、僕の中には1つの疑問があった。「なんで主人公は、こんな子なのだろう?」……同じく森見登美彦の小説を原作とするアニメ「有頂天家族」を見た時も主人公・矢三郎のたいがいな阿呆ぶりに驚いたものだが、本作の主人公・アオヤマ君の人物像はそれ以上に驚きの対象だった。この感想では彼と、彼から見えたものについて触れてみたい。


 「僕は大変頭がよく、しかも努力を怠らず勉強するのである」……本作はアオヤマ君のこんな述懐から始まる。実際彼は授業の範囲を越えて広い知識を持ち、述べる言葉はいつも理論立てたもの。幼い頃の自分もこんな子だったと言える人間は、0ではないかもしれないが滅多にいないだろう。およそ彼は、子供らしくない子供だと言える。
 しかし、どれだけ平均的な子供像からかけ離れていても彼はやはり子供だ。どれだけ立派なノートを作成しても眠気には勝てないし、乳歯はぐらつきまたそれを抜く勇気はなく、コーヒーは苦くて飲めない。幼い頃の自分もこんな子だったと言える人間は、100ではないかもしれないが非常に多いだろう。およそ彼ほど、子供らしい子供もいない。
 この相反する感覚は、しかし矛盾ではない。だって彼が熱にうなされながら見た夢の中で、お姉さんはこう言っているのだから。

「本当に遠くまで行くと、元いた場所に帰るものなのよ」

 私達はアオヤマ君の子供らしくなさを見れば見るほど、同時に彼の子供らしさも見つけずにはおられないのだ。


 そういうふうに遠さが逆に近さを生むのは、ヒロインであるお姉さんにしても同様だ。劇中で彼女は「お姉さん」以外になる場面はほとんど見られない。お姉さん以外の呼び方をするための名字も名前も、同格の誰かを作る同僚も、彼女が娘になる両親との電話も描かれることはない。アオヤマ君の視点から得られる情報はどうしても彼女一定の距離があって、しかしそれ故にお姉さんはお姉さんでいられる。既に彼女の年齢を越した視聴者にとってさえ、画面に映る彼女は「お姉さん」でしかないのである。


 いかにも知的エリートといった雰囲気のアオヤマ君のお父さんや、「憧れの」(=非一般的な)マイホームであった郊外の住宅地という舞台も含め、本作はけして私達とぴたり重なることはない。けれどその間隙があまりに大きい故に、本当に遠くにある故に、私達はそこに幼い自分達の瞳に映った世界を思い出す。立派な大人になれると無邪気に信じた日々を。父に背中を押されたあの時を。母の優しさに包まれたあの時を。全てが輝いて見えた、あの頃を。だからアオヤマ君はまったく私達とは程遠い子供であり、同時に私達に誰より近い子供でもあるのだ。
 住宅地にペンギンが現れる。本作のその設定はもちろん、SFである。しかし何より本作をSFたらしめているのは、その世界と人々が私達に黄金のような世界を幻視させる力を持っているからではないだろうか。

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